その日ヒロシは、駅前の高級マンションの前を通った。
別に用はない。
ただ時間を潰しながら歩いていただけだった。
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エントランスの前、
黒いリードにつながれた、白い毛並みの犬がいた。
ふわふわしていて、ヒロシより毛艶が良い。
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犬はじっと、ヒロシを見ていた。
ヒロシも、じっと、犬を見た。
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「おまえ……ええとこ住んでんな」
ヒロシはつぶやいた。
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そこへマンションのドアが開いた。
ハイヒールの女の人が、銀色のトレーを持ってきた。
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その上には、焼きたてのステーキがあった。
肉厚で、湯気が立っていて、香ばしい匂いがした。
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「おまたせ〜ラテちゃん。オーストラリア産フィレステーキよ」
女の人が言った。
犬が尻尾をふった。
ヒロシの胃が、音を立てた。
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「ええなぁ……」
思わず声が漏れた。
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犬はステーキに夢中で、もうヒロシを見ていなかった。
金属の皿に、肉の油が広がる。
ヒロシの口の中はよだれでいっぱいになる
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ヒロシは立ち上がって、そっと背中を向けた。
ポケットの中にあった飴玉を口に入れた。
飴はいつも通り甘かった。
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終わり