例えば運送会社で交通事故が発生した。運送会社にとっては防止すべき事象だ。再発防止策を策定するだろう。その再発防止策が「ハンドルに『事故をしないこと!』というテプラを貼る」だったらどうだろう。防止策にはならない。しかし我々の身の回りでは往々にしてそういう事態が発生する。
マシュー・サイドの「失敗の科学」の核心は、「失敗を避けること」ではなく、「失敗を正直に認め、そこから徹底的に学び、システムを改善する文化」こそが、究極の成功を生み出すという点にある。この考え方を、著者は航空機のフライトレコーダーにちなんで「ブラックボックス思考」と名付けている。
1. 失敗を許容するシステムが安全を生む
人間の脳は、自身の誤りや失敗を認めることを嫌い、言い訳や自己正当化によって真実から目を背けがちだ。この心理的な傾向が、組織や社会に「失敗を隠す文化」を生み出し、同じ過ちの繰り返しを招く。これが「閉じたシステム」である。
例えば運送会社なら事故をした本人が叱責を恐れて上司に報告しなかったり、上司が管理責任を恐れて会社に知らせずに処理をしてしまったりすることがある。
しかし、失敗をデータとして冷静に分析し、システムを改善する「開いたシステム」を実行している代表例が、航空業界だ。
究極の安全を達成した航空業界
航空機事故が発生すると、独立機関がフライトレコーダー(ブラックボックス)のデータを徹底的に解析する。この目的は、パイロットの個人を責めることではなく、「なぜシステムが機能しなかったのか?」を客観的に突き止め、全業界の教訓とすることだ。
例えば、降着装置(ギア)と高揚力装置(フラップ)のレバー誤操作事故が多発した際、航空業界はパイロットの注意力を責めるのではなく、システムの設計を改善した。ギアのレバーには車輪の形のノブを、フラップのレバーには翼の形のノブを取り付けたのだ。
「ギアとフラップを間違えないこと!」というテプラを貼るような対策は行われない。フラップにテプラを貼るだけではシステム設計の改善とはいえないだろう。
これは、人間はミスをする前提に立ち、ミスをしても事故に至らない設計を施すという、失敗から学ぶ文化の勝利である。
2. 失敗を隠す文化がもたらす悲劇的な結果
航空業界の成功とは対照的に、失敗を隠蔽しがちな業界では、その代償が甚大になる。
医療業界:システム的な過誤の連鎖
「失敗の科学」が指摘するのは、医療業界における医療過誤の問題だ。献身的な医療従事者にもかかわらず、医療過誤が先進国で第三の死因になっているという事実は重い。
問題の根源は、訴訟や評判を恐れて失敗が隠蔽され、情報が共有されない文化にある。個人の責任として処理されることが多いため、システム的な欠陥がそのまま放置され、同じミスが別の場所で繰り返されてしまうのだ。失敗を許さない「閉じたシステム」が、皮肉にも人命に関わる致命的な失敗を量産している。
刑事司法:認知の罠と冤罪の危険性
さらに、刑事司法の分野でも、失敗を認めない心理が働く。
捜査官や検察官が一度特定の仮説に固執すると、矛盾する証拠を無視したり、都合よく解釈したりする確証バイアスに陥りやすい。フアン・リベラ事件の例のように、自らの初期の判断を正当化するために、客観的な真実から目を背ける行為が、冤罪という悲劇的な結果を引き起こす。
これは、知性に関係なく、自分の過去の行動を失敗だと認めたくないという人間の防衛本能が、進歩と正義を妨げていることを示している。
3. 完璧な理論よりも試行錯誤の力
成功への道は、完璧な計画にあるのではなく、試行錯誤の回数と、そこから得られるデータにある。
ユニリーバ:理論が実践に敗北した開発競争
世界的企業ユニリーバの粉末洗剤開発におけるスプレーノズルの目詰まり解消の事例は、この点を痛烈に示す。
粉末洗剤を製造するには液体の洗剤をスプレーで噴射して乾燥させることで粉末化する。ところがこのスプレーが目詰まりしやすく生産性が上がらない。ユニリーバではスプレーノズルの改良に取り掛かった。
一流の物理学者や流体力学の専門家を集めて、理論的に完璧な形状のノズルを設計した。ところが工場の複雑な現場に投入するとうまく作動しないことがわかった。
その後、理論を脇に置き、ノズルの形状を体系的に変えた何百もの試作品をひたすら作り、テストを繰り返す「試行錯誤」のアプローチが採用された。
その結果、彼らは最終的に、当初の理論とは全く異なる、問題を解消する革新的な設計を発見した。これは、机上の空論よりも、小さな失敗とフィードバックのデータの積み重ねが、いかに強力な解決策を生み出すかを証明している。
陶芸クラス:量が生む質
この試行錯誤の重要性は、陶芸クラスの実験からも明らかだ。生徒を2グループに分けて実験を行った。
「完璧な作品を1つだけ作る」ことを目指すグループ(質)と、「とにかく多くの作品を作る」ことを目指すグループ(量)に分けて、秀でた作品を作った方に高得点を与えると告げる実験を行ったところ、最終的に量と質の両方で上回ったのは「量」のグループだった。
完璧を目指すあまり行動しない「質」グループに対し、「量」グループは失敗を繰り返す中で自然と技術を習得した。失敗を恐れず早く経験することこそが、成長の最短ルートなのだ。
結論:失敗を未来へのデータに変える
『失敗の科学』が教えてくれるのは、失敗は単なる経験ではなく、未来の成功のための客観的なデータだということだ。
私たちは、自身の行動や仮説を「ブラックボックスのデータ」として記録し、失敗した際には、誰かを非難するのではなく、「なぜ失敗したのか」を冷静に分析する勇気を持つ必要がある。
この「ブラックボックス思考」こそが、個人としても組織としても、停滞を打破し、持続的な進歩を生み出す鍵となる。今日から、失敗を恐れるのをやめ、失敗を未来への貴重な投資に変えていこう。
テプラや注意書きのポスターを貼りまくる会社は再発防止を本気ではやっていない。そんな会社に勤めている人は見切りをつけて転職を検討するのが成功への近道かもしれない。


