ヒロシとジュースの自販機

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ヒロシがまだ、団地の4階に越してくる前の話。
小学校の低学年。ランドセルの底には、くちゃくちゃになったプリントと、カラの筆箱。

団地の裏手にあった、くたびれた古い自販機。
冷たいジュースがチカチカと光っているその姿は、当時のヒロシにとって、ほとんど「神」だった。

ある日、近所のガキ大将が言った。

「下のとこ、腕つっこめば、取れるぞ」

やってみると、たしかに缶に指が触れた。
ちょっと冷たくて、ちょっと震えてた。

「うわ、ほんまに取れた……!」

ヒロシはその日、「盗み」という言葉を知らずに、三ツ矢サイダーを飲んだ。

でも、味はよくわからなかった。
喉を通る炭酸の刺激よりも、心の奥でチクチクするなにかの方が強かった。

その夜、カーチャンが言った。

「ヒロシ、今日学校どうやった?」

ヒロシは、「うん、まあまあ」と答えてうつむいた。

数日後、自販機の下に金属のフタが増えて、もう手は入らなくなっていた。
ヒロシはそれを見て、ホッとした。

今も、自販機の前を通るとき、時々あの頃の手の感触を思い出す。
冷たくて、震えていて、なにより小さかった自分の手。

「俺、いまでもあのサイダーの味、よう思い出せんわ」

そうつぶやいて、ヒロシは財布の小銭を確かめ、自販機の前をそっと通り過ぎた。

終わり