駅前のベンチに座っていたヒロシ。
今日はTシャツが少し新しめだった。
理由はない。
たまたまだ。
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そんなときだった。
目の前に、若くて可愛い女の子が立った。
赤いワンピース、ゆるく巻かれた髪。
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「すみません……お時間、ありますか?」
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ヒロシは頭が真っ白になった。
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「え? お、おれ? 俺っすか?」
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「はい。なんか、雰囲気が素敵だったので……」
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雰囲気。
そんな言葉、ヒロシの辞書にあっただろうか。
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「え、あの、時間あり余っています……」
声が裏返った。
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そのまま喫茶店へ。
女の子は笑顔で話しかけてきた。
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「実は…アートって、興味ありますか?」
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ヒロシの中で、かすかな警報音が鳴る。
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「え、アート……?」
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「素敵な版画を、ぜひ見てほしくて」
バッグから出されたのは、明らかに高そうなカタログ。
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そこに印刷された文字:『アールビヴァン』
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ヒロシは笑顔を保ったまま、スッと立ち上がった。
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「すいません、ちょっと…用事を思い出したんで…」
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店を出て、商店街を抜けて、公園で息をついた。
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ベンチに腰を下ろし、握った手を見つめる。
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「……俺の雰囲気って、どういう雰囲気やねん」
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吹き始めた春の風が、どこかやさしくも冷たかった。
—
終わり