ヒロシという男の物語

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大人の絵本

ヒロシは、団地の四階に住んでいます。
玄関の鉄製のドアはちょっと重くて、開けるたびに「ギィ」と泣きます。

部屋には時計の音と、冷蔵庫の低い唸り声。
カーテンの隙間から、毎日ちょっとずつ違う色の光が差し込みます。


ヒロシは昔からちょっとだけ不器用でした。
シャツのボタンを一つズラして留めるのも、
レジでお金をジャストで出せないのも、
相手の目をちゃんと見て話せないのも、
なにも悪いことじゃないと、自分に言い聞かせてきました。


カーチャンは、同じ団地の隣の棟に住んでいます。
昔、ヒロシがまだ小さかったころ、
ふたりで引っ越してきました。

ヒロシがおとなになってから隣の棟に引っ越しました。

「父ちゃん」の記憶は、ヒロシにはありません。
写真もなければ、声も知らない。
でも、なぜかときどき夢には出てきます。
顔がぼんやりしていて、なにか言いたげに、遠くを見てる。


スマホは、持っています。
LINEとYouTubeは使えます。
通知はほとんど来ません。
でも、ときどき来る「広告」の眩しさに、
ほんのすこしだけ、目を細めてしまうことがあります。


ヒロシの一日は、ゆっくり流れます。
誰かが見逃してしまうような、かすかな音や、小さな風が、
彼の物語のページを、そっとめくっていくのです。


今日もヒロシは、団地の階段を降ります。
エレベーターなんてありません。
スニーカーの踵はすり減って、靴下には小さな穴があいてるけど、
それでもどこかへ向かって、彼はちゃんと歩いていきます。