ある日私は家族を用いた実験を敢行した。
岡山県民にはおなじみの激安スーパー「ラムー」にいつものアホ面で訪れたところ「備蓄米 お一人様一つ限り!」というポップが目に入った。ポップの下の陳列スペースに目をやると1袋だけが残っていた。すかさず手を伸ばしレジに向かった。5kg2,000円だった。
備蓄米は「まずい」と決めつけられている?
「備蓄米を炊いてみたよ」と言って家族に出したらどうなるかは目に見えている。
備蓄米という名前からの印象で家族たちは「美味しくない」だの「臭い」だの言うに決まっている。ならば何も言わずに食べさせて後で種明かしすれば備蓄米に対する抵抗感もなくなるのではないか、と思い夕食に黙って出してみることにした。
妻の無反応と、私の確信
その夜、食卓に供された茶碗のご飯を口にした妻は、特にコメントもせず、普段通りに食事を終えた。つまり違和感はなかったということだ。ワタシは妻が気づくまで何も言わないことにした。
妻がいつ気づくだろうと思っていると、早速ではあるが翌日に備蓄米の袋に封が切られていることに気づいた妻が声を上げた。
「えっ、備蓄米炊いたん?」
私はすっとぼけて「さあ? 食べてたら味で気づいてるんじゃない?」と返した。
「やっぱり不味かった」!? 謎の後出し評価
妻は眉をひそめて「いつ炊いたん?」と問い詰めてくる。
私は密かに勝利を確信した。
「分かってないってことは、つまり美味しかったってことだな。昨日の夕食は備蓄米だったよ」
すると妻は一拍置いてから堂々とこう言ってのけた。
「あー、やっぱり! なんかマズイと思ったんよ!」
まさかの後出しジャンケンである。
これはもう「味覚」じゃない、「思い込み」だ
昨夜は何の異論も唱えず、むしろご飯をおかわりすらしていたというのに、「備蓄米だった」と知らされた瞬間に「やっぱり不味かった」になるのである。
こうなると、もはや味覚ではない。先入観の問題だ。
私はそれ以上は追及しなかった。しつこく言えば妻の機嫌がこじれる。感情の糸が一度もつれたら、解くのに時間がかかることは経験上よく知っている。私は大人なのでここは引き下がるのが賢明だ。
「ラベル」が味を決める不思議な構造
だが、この一件で私の中で確信めいたものが生まれた。
「人の味覚は、ラベルに大きく支配されている」
妻はとりわけその傾向が強い。
セブンの炭酸水 vs ウィルキンソンの正体
セブンイレブンのPBの炭酸水を飲んだ妻が「なんか苦い」と言ったことがある。妻にとってPB商品は憎むべき「安物」なのだ。妻にとって正義の炭酸水は「ウィルキンソン」なのだ。
実のところウィルキンソンのメーカーはアサヒ飲料であり、セブンイレブンのPB炭酸水のメーカーもアサヒ飲料である。つまり両者はラベルが違うだけで中身は全く同じ炭酸水なのだ。
“見た目で味が分かる”のか問題
ある日、ドライブ中に可愛らしい外観のカフェを見かけた。白い壁、ナチュラルウッドの建材、手書き風のロゴ看板に、グリーンの蔦が垂れている。「女子ウケ」全開のデザインだ。
それを見た妻は、「えー、美味しそう❤️」と言った。
私は一瞬思った。「え? 建物見ただけで味が分かるの?」と。
のどもとまで「建物見て“美味しそう”って言うのはシロアリなんよ」と出かかったが、飲み込んだ。私は大人なのだ。だが、こうした直感的な“雰囲気判断”が女性に多いのも理解できる。
「御下賜米」に変身するラムー米の話
──仮に、ラムーで売られている備蓄米とまったく同じ米を、次のようなストーリーを付けて販売したらどうなるだろうか。
「この米は本来、皇室献上用として選ばれた最高級の皇室ブレンド米である。皇居の地下にある“天皇家専用冷蔵米蔵”で一定期間保管されたのち、在庫調整のため民間に一部放出された“御下賜米”である。通常は入手不可能な品であるが、特別ルートにより百貨店・三越のみで限定販売中。価格は5kgで2万円──」
そうしてその米を買って帰ったら、妻は興奮するだろう。パッケージを撫で回し、「これ、あの御下賜米なんでしょ?」と目を輝かせて言うに違いない。そして食卓で一口食べて、こうつぶやくだろう。そして食卓で一口食べて、こうつぶやくだろう。
「やっぱり、御下賜米は美味しいね!」
私は確信している。
同じ米でも、包装と物語を変えれば“極上の味”に変貌するのだ。
つまり人の味覚は、味そのものよりも「背景」に大きく左右されるのである
「高い炊飯器」で感じた“自己暗示”の味
もちろん、これは妻だけの話ではない。私にも思い当たる節がある。
以前、炊飯器が故障した。鍋で炊飯するのも面倒なのでエディオンに炊飯器を買いに行った。そこには5千円位の安物の炊飯器と3万円くらいの高級な炊飯器が売られていた。ワタシは2時間悩んだ末に3万円の炊飯器を購入した。本当は5千円の安物を買おうかと思っていたのだがその日少し発熱していたワタシは気の迷いで3万円の炊飯器にしてしまった。
買ってすぐに炊いたご飯を「やっぱり違うな」と思った。だが、それは炊飯器の性能によるものか、自分の「高い金出したから美味しくあってほしい」という願望のなせる味覚錯覚かは、今もって判断がつかない。
現在もその炊飯器を使い続けているのだが炊飯器を買って炊飯したときのような感動はない。いつものご飯がいつものように炊きあがるだけだ。
味覚は「舌」ではなく「脳」が決めている
味覚というのは、本来とても曖昧な感覚である。
感情、環境、雰囲気、情報、価格、ストーリー──それらが全て、口の中で味を構築している。
味そのものの評価など存在しないと言えるかもしれない。
静かなる“家庭内ブラインドテスト”は続く
それでも私たちは「舌で感じている」と信じている。実際には、目と耳と財布で“味”を作っている。
今回の備蓄米事件は、そのことを強く印象づけた。
ラベルを剥がし、パッケージを隠して、黙って出す。
それこそが“本物の評価”を得る唯一の手段である。
「それ、ラムーのだけどな」と心の中でつぶやく
私はこれからも、ときおり静かに実験を続けていこうと思う。
備蓄米も、PB牛乳も、無名メーカーの調味料も、妻には何も言わず、ただ静かに食卓へ並べる。
情報の先入観という調味料を加えずに、純粋な反応を観察する。
そして、心の中で思うのだ。
「それ、ラムーのだけどな」と。
それがささやかな、日常の中の知的ゲームであり、私のささやかな楽しみなのである。