春。
団地の中庭には、椿の花がぽつぽつと咲いていた。
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ヒロシは、その横のベンチでパンの耳を食べていた。
たまたま目に入った、赤くふっくらした椿の花。
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「……小さい頃、吸うてたな」
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ヒロシは立ち上がって、ひとつ花を手にとった。
そっと花の根本をちぎって、くわえる。
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じんわりと広がる、甘いような青臭いような味。
懐かしくて、ちょっと幸せな気持ちになった。
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「……なんか、ええやん」
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ヒロシはもう一輪、もう一輪と、
まるで子どもに戻ったみたいに蜜を吸い始めた。
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そのとき。
背後から、舌打ちが聞こえた。
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「ちょっとアンタ、なにしてんの」
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団地の掃除をしていた、よく見るおばさん。
ほうきを小脇にかかえ、呆れたように立っていた。
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「椿はな、観賞用。蜜吸うためのもんとちゃうで」
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ヒロシは、手にした花をそっと後ろに隠した。
口の中に残る甘さと恥ずかしさで、なにも言えなかった。
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「子どもでも今どきやらんわ、そんなん……」
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おばさんはため息をついて、箒をトンと地面に叩いた。
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ヒロシはうつむいて、静かにベンチに戻った。
手のひらの中で、ちぎられた椿の花がしおれていた。
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ベンチに腰かけ、指で蜜の残りをなぞって舐めた。
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「……子供の頃は怒られへんかったのにな」
そんなつぶやきだけが、団地の風に吸い込まれていった。
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終わり