その夜、ヒロシは珍しくすっと眠れた。
団地の天井のシミを数えるまでもなく、目を閉じたらすぐ夢の底。
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ぬるい風が網戸を通って部屋に入る。
テレビはつけっぱなしだったが、もう音は頭に入っていなかった。
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口を開けて寝るのがヒロシの癖だ。
仕方ない。鼻の通りが悪い。
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その時だった。
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ふわり、どこからともなく、
部屋に入ってきた黒っぽい影。
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カサカサ。バサバサ。
一瞬、電気の光に反射するそのはね。
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「蛾」だった。
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蛾は、ヒロシの口元で迷い、
そのまま、ふわりと――
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ヒロシの口の中に入った。
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ヒロシは、目覚めた。
というより、本能が目を覚まさせた。
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「んぐっ!!……バフッ!!」
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遅かった。
舌の上に、柔らかい何かが潰れた感触。
渋みと粉っぽさと、得体の知れない味。
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ヒロシ、むせ返る。
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「オゴォォ!!オホォォッ!!」
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キッチンへ飛び出し、口の中の異物やよだれを吐き出した。
30回以上口をすすいで、顔を洗って、それでも、感触が消えない。
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「……マジか……」
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口の端から、白っぽい鱗粉が垂れていた。
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鏡に映る自分を見て、
ヒロシは思わず笑ってしまった。
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「寝てるだけやのに、なんでこんな目ぇ合うんや」
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その夜、ヒロシは電気をつけたまま寝た。
口にはマスクをして。
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網戸の穴を、明日直そう。
ヒロシはそう思ったが、
きっと直さないまま、また夏が来る。
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終わり